
「運と縁」に導かれた、恩返しの人生。私が新潟で見つけた「一所懸命」という自分の価値
新潟大学経済科学部に通う畑野美紀さん。環境問題に取り組み、ミスコンテストに出て、おにぎりの販売プロジェクトを成功させ、市の成人式では実行委員長を務める。活動を見れば「スーパー大学生」に見えるかもしれませんが、その華やかな経歴の裏にあるのは、決して自信満々なリーダー像ではなく、「自分は無価値ではないか」という不安と戦いながら、目の前のことに愚直に向き合い続けてきた等身大の姿でした。「人生は運と縁」と語る彼女が、なぜこれほどまでに多様な活動に身を投じ、そこで何を見つけたのか。
大阪府生まれ、埼玉県さいたま市育ち。新潟大学経済科学部への進学を機に新潟へ移住。大学ではストリートライブラリーの設置活動や、ミス・アース・ジャパン新潟大会への出場、学生主導の「おにぎりプロジェクト」、新潟市「二十歳のつどい」実行委員長など、多岐にわたるプロジェクトに参画。
姉の陰に隠れてばかりだった私が、自分の足で立つまで
生まれは大阪ですが、育ちはずっと埼玉県の浦和です。ただ、長期休みのたびに大阪へ帰省していたので、私にとって大阪は第2の故郷のような場所です。
大阪には、厳しくも愛情深い祖母がいました。「漢字の練習ができていないじゃない!」とピシャリと叱られ、掃除機のかけ方一つでも「ドン臭いな」とやり直しをさせられる。それなのに不思議と、叱られながらも温かさが伝わってくるのです。親戚が大勢集まる賑やかな食卓、お小遣いをもらいながら裁判所などあちこちへ連れて行ってもらったのんびりとした日々。厳しさと優しさが表裏一体の祖母との時間が、大阪を私にとってかけがえない場所にしていました。
幼い頃の私は、3つ上の姉の後ろに隠れているような、とても内気な子供でした。水泳教室でも、姉がいる時は一番前に並ぶのに、姉がいないクラスだと一番後ろで先生に呼ばれるのをじっと待っている。決して積極性のある子どもではありませんでした。
でも、ある日気づいてしまったんです。「お姉ちゃんがいなくなったら、私、何もできないじゃん」って。その気づきは、怖さであり、悔しさでもありました。できない自分が嫌で、嫌で仕方なかった。そこからです。後天的にコミュニケーション力を身につけようと、意識的に前に出るようになったのは。負けず嫌いで、ちょっとマセた子供だったんだと思います。
小学生の時、地元の中高一貫校を目指して猛勉強しましたが不合格になってしまいました。緊張しすぎて、全然ダメでした。ズタボロになって泣きながら焼肉を食べた翌日に受験した私立の中高一貫校に合格して、進学を決めました。
中学生になり、初めて海外へ行った時の衝撃も忘れられません。父が突然「フィリピンに行くぞ」と言い出して連れて行かれたマニラ。道には裸のまま横たわる人がいて、同年代の子たちが「お金ちょうだい」と手を伸ばしながら、花やお菓子を売り歩いていました。強い匂い、むき出しの生活——五感すべてで突きつけられる現実。一方で、そこから少し歩いたショッピングモールに足を踏み入れると、富裕層が何事もなく買い物を楽しんでいる。「今通り抜けてきたあの道は、幻だったの?」と思うほどの落差でした。「世界はこんなにも広いんだ」と知りました。もともと漠然とあった海外への興味が、確信に変わった瞬間でした。
その頃、もう一つ私の価値観を形成する出来事がありました。中学2年生の時に始めたヘアドネーションです。テレビで同年代の男の子がやっているのを見て挑戦し、その思いを作文に書いたところ、学年全体に共有され、同級生が何人もヘアドネーションに参画したことを報告してくれました。ちょっとの行動や発信が、周囲を巻き込み大きな力になる。そんな実感を持てましたし、ボランティアや環境保全への関心を持つようにもなりました。

幻となった留学と、食卓で知った日本の底力
中高の6年間は、オーケストラ部でバイオリンに没頭しました。吹奏楽部とはまた違って、厳しいコンクール至上主義ではなく、みんなで意見を言い合って一つの音楽を作り上げる。雰囲気はいいけど、みんなで真剣に取り組む。そんな空間と時間が本当に楽しかったです。

最後の定期演奏会では、中1の頃にお世話になった高3の先輩から、自分が高3になった時の中1の後輩まで、6年間で見送り、また迎えた顔たちが客席に並んでいました。「美紀ちゃんたちの卒業を見に来たよ」とわざわざ足を運んでくれた先輩たちの顔を見た瞬間、こうして人と人は繋がっていくのだと実感し、涙が溢れました。



