「私のような流されやすくて失敗した人間でも変われる」
大学時代に2度の留年という、一見すると「遠回り」に見える道を歩んできた網代和花さん。しかし、彼女にとってこの時間は、単なる停滞ではありませんでした。
彼女は今、新潟県内で急速に存在感を高めている学生コミュニティ「次世代BASE」の共同創設者として活動しています。大学の枠を超え、学生が「やりたい」を形にできるこの場所には、現在約200名のメンバーが登録して、関係者は2000名以上に登ります。
かつては周囲の空気を読みすぎ、断れない性格に悩み、自分の意志を見失っていたという網代さん。なぜ彼女は変わりたいと願い、どのようにして自らの人生を切り拓く力を手に入れたのか。
「失敗したからこそ、見えた世界がある」そう語る彼女の、葛藤と挑戦の軌跡に迫ります。
網代 和花(あじろ わか)。新潟大学 創生学部 3年生。新潟県胎内市出身。大学入学後、周囲に流される生活で1度目の留年を経験。それを機に「自分を変えたい」と一念発起し、ミスコンテストへの出場(トップ5入賞)や学生コミュニティ「次世代BASE」の立ち上げを行う。活動に熱中するあまり2度目の留年を経験するも、現在は学生と社会をつなぐIRフォーラムの運営や司会など、多岐にわたり活躍中。
「自分の意志で選んでいいんだ」 教室の隅で決行した初めての"逃走"
新潟県胎内市で生まれました。幼少期は、ピアノ、書道、英会話教室と、毎日のように習い事に通う日々を送っていました。親や先生の言うことをよく聞く、いわゆる「いい子」。活発に飛び回るというよりは、与えられた課題をコツコツとこなすような子どもでした。
そんな「従順さ」が裏目に出たのが、中学生の頃です。仲の良かった友達グループの中で、ある一人の子が絶対的な主導権を握っていました。「あれをして」「あっちに行って」彼女の言葉は絶対で、逆らえば居場所がなくなる。そんな空気に支配され、気づけば自分の意志を殺して従う日々が続いていました。
「もう、うんざりだ」
そう思ったのは、中学3年生の受験シーズンです。みんなが受験モードになるこのタイミングが、この関係を断ち切る唯一のチャンスだと思いました。初めて「嫌なことは嫌だ」と態度で示す決意をしました。無理をして彼女の機嫌を伺うのをやめ、自分のペースで過ごす。ただそれだけのことですが、当時の私にとっては大きな勇気が必要でした。
勇気を出して距離を置いたことで、張り詰めていた糸がふっと緩みました。まるで長い冬が終わり、春が訪れたかのように、心がスッキリと晴れ渡っていくのを感じました。
「自分の意志で選んでいいんだ」
そのことに気づいてからは、学校に向かう足取りも軽くなり、視界が開けたように学校生活が楽しくなりました。そうして、無事に受験も乗り越えることができました。
「見てろよ」の反骨精神。バドミントン部で培った負けず嫌い
私の親は体育教師で「勉強はできなくてもいいから、運動だけは頑張りなさい」と言われて育ちました。なので、運動に対しては少しプライドもあり、中学ではバドミントン部に入り、部長を務めていました。高校でも、バドミントン部にすべてを捧げました。
入部した高校には他校から来た強い先輩がいて、その人とダブルスを組むことが目標になりました。念願叶ってペアを組めましたが、実力差は歴然。当然、相手チームは私ばかりを狙ってきます。「あのひょろっとした奴を狙え」「動かせ」コートの外から聞こえてくる言葉に、心が折れそうになるどころか、その反骨精神が私を突き動かしました。
朝練を導入し、練習メニューも時間配分もすべて自分たちで組み立てました。上級生が少ない環境だった分、誰かにやらされるのではなく「自分たちでアクセルを踏む」経験が、私の芯を作ってくれたと思います。
しかし、勉強の方はというと、まったくダメでした。高3の直前にコロナ禍で休校になり、部活も強制終了。「私の生きがいが消えた」と呆然としている間に、周りは受験勉強を進めていました。夏に学校が再開した頃には完全に置いてきぼりで、模試はずっとE判定。「やばい、行く大学がない」と焦りました。
先生からは「国公立を目指せ」と言われますが、一般入試で受かる気配はない。それでも、「新潟大学に行けば親も喜ぶし、認められる気がする」という一心で、一か八か、創生学部のAO入試に賭けることにしました。設立間もない学部で過去問もない中、小論文と面接対策に全振りしました。社会科の先生に毎日添削を頼み、文理融合の課題を必死で解く日々。
結果は、合格者の中で最下位でしたが、なんとか合格。なんとか大学生への切符を掴み取りました。
飲み会、バイト、そして留年。「NO」と言えなかった代償
念願の大学生活。最初は順風満帆でした。バドミントンサークルでの活動や、地元サッカークラブ「アルビレックス新潟」のサポーター活動など、充実した生活でした。
しかし、20歳を過ぎてお酒を飲むようになると、私の生活は一変しました。飲み会に誘われることが多く、連日のように飲み会に参加していました。いつ誘われても良いように、飲み会に行くためにお金を稼ごうと、授業をサボってバイトに明け暮れる。夜は朝まで飲み明かし、そのままバイトへ向かう。そんな生活リズムの崩壊が始まりました。
私は特にお酒が好きだったわけではありません。ただ、その場の楽しい雰囲気が好きだったし、何より「誘われたら断れない」性格が災いしました。断ったら嫌われるかもしれない、ノリが悪いと思われたくない。そんな八方美人な自分が顔を出し、流されるままに過ごした結果、単位を落とし、大学に行かなくなりました。
そして突きつけられた、1回目の「留年」という現実。
親に申し訳なくて、伝えるのが怖かった。でも、勇気を出して報告した時、返ってきたのは怒声ではなく、予想外の言葉でした。
「別に一年くらい変わらないじゃない。じゃあ逆に、この一年好きにやりなよ」
拍子抜けすると同時に、強い罪悪感と「何かをしなければ」という気持ちが生まれました。「この一年を無駄にしてはいけない。何かを変えなければ」と。
荒療治としての「ミスコン」。自分を殺して生まれ変わる
「自分を変える」ために、私が選んだ最初の手段は極端なものでした。それは「ミスコンテスト」への出場です。
私はもともと、考えすぎて動けなくなったり、周りに合わせて自己嫌悪に陥ったりする自分の性格が大嫌いでした。「普通のことをしていても、この性格は治らない。だったら、自分とは真逆の世界に飛び込んで、無理やりにでも変えるしかない」。それは、弱い自分を一度殺して、生まれ変わるための"荒療治"でした。
ミスコンは「いかに自分を良く見せるか」を競う場です。自分を好きにならなければ戦えない世界で、周りはモデル経験者ばかり。ド素人の私は、SNSでの発信やパフォーマンスの練習に死に物狂いで取り組みました。留年した私を陰で笑う人たちへの、「見てろよ」という反骨精神もガソリンになりました。
結果はトップ5。優勝こそ逃しましたが、人生で初めて「自分でやると決めて、最後までやり抜いた」という事実は、自信につながりました。

「起業」の壁と、孤独なリーダーたちとの出会い
ミスコンへの挑戦と並行して、私は将来のキャリアについても考え始めていました。
「普通の就職ではなく、もっと面白い生き方がしたい」そんなことを友達と話しているうちに、起業家コミュニティに参加したり、これまでの様々なつながりを活かして友人と一緒に、新潟の企業の人を紹介する「インタビューメディア」の立ち上げに挑戦しました。
学生と企業をつなぐハブになりたいという思いで始めたのですが、すぐに壁にぶつかりました。マネタイズができない、サイト構築の技術がない、そして何より「二人でやり続けること」の孤独と限界です。「起業しなきゃ」というプレッシャーと、「自分には何かが足りない」という焦り。メディアは形になりきらず、私たちは行き詰まってしまいました。
そんな時に、たまたま交流会で出会った同じ大学の同級生の友人と話していると「サークルや学生団体のリーダーは、同じように何かやりたいけど上手くいかなくて悩んでいるんじゃないか」という話題になりました。
たしかにそうかもしれないと思い、私たちは3人で各所で活動している学生代表たちに声をかけ、「学生団体・サークル運営者交流会」を開くことにしました。集まった場所で始まったのは、意識の高い議論ではなく、泥臭い悩みの共有でした。「お金がない」「後輩が入ってこない」「モチベーションが続かない」みんな、外ではキラキラして見えても、裏では同じ孤独を抱えていたんです。
そして、そのイベントに来ていた1人の同級生と、私たち3人は意気投合して、4人で次世代BASEを立ち上げることにしました。このつながりが終わってしまうのはもったいないと思ったことに加えて、作りたいコミュニティの思いが共有できたんです。
私が以前に参加していた起業家は、非常に熱量の高いメンバーが集まる刺激的な場所でしたが、「起業という形にとらわれず、もっと等身大で挑戦できる場所があってもいいのではないか」と感じるようになっていました。私たちは、必ずしも会社を作りたいわけじゃない。でも、何か夢中になれることをやってみたい。学生が挑戦したいことを応援できる、居心地の良いコミュニティを作ろう。そんな思いで、次世代BASEは動き出しました。
「私でも、ここまでできる」。200人の経営者を前に得た確信
私たちが運営する「次世代BASE」は、大学の枠を超えて、学生が「やりたい」を形にできるコミュニティです。単なる仲良しサークルではなく、社会との接点を大切にしているのが特徴です。企業と連携したイベントの企画や運営など、学生のうちから社会的な経験を積むことで、挨拶や礼儀といった人間力も磨かれる。そんな「学生が主役になれる場所」を目指して活動しています。
その活動の一環として、私が特に力を入れたのが「IRフォーラム」の運営でした。これは新潟で地域を代表する上場企業の社長の話を聞いたり、ゼロ距離で学生と対話をできるイベントで、私たちは学生を集め、広報を行う役割を任されました。
そこで私は、県内にある大手銀行の頭取へのインタビューという大役を務めることになりました。SPのような人たちに囲まれた厳重な雰囲気の中、汗だくで現場に到着した私。「やばい、場違いかも」と思いましたが、逆に腹が据わりました。定型的な質問だけでなく、相手の本音や人間味を引き出すような質問を投げかける。その結果、会話が弾み、自分の中で大きな自信になりました。
そして、フォーラム後の懇親会での出来事です。新潟の上場企業の役員など約200名が揃う会場で、急遽スピーチをすることになりました。足が震えるほどの緊張の中、マイクを握って話し終えた時、会場からの温かい眼差しを感じました。
「私、こんなすごい人たちの前で話しているんだ」
それは、かつて教室の隅で震えていた自分や、飲み会で流されていた自分からは想像もできない光景でした。「自分たちで行動してきたからこそ、この景色が見られるんだ」それは確信に変わりました。
実は、この時期あまりに活動に熱中しすぎて、2度目の留年をしてしまいました。ミスコンと次世代BASEの両立で東京と新潟を往復し、学業がおろそかになってしまったんです。でも、後悔はありません。それ以上に得たものがあると考えています。

失敗した私だからこそ、渡せるバトンがある
現在は、大学卒業に向けて就職活動をしています。以前は「ベンチャー企業だから成長できる」と考えていましたが、今は会社の規模よりも「誰と働くか」を大切にしたいと考えています。尊敬できるトップのもとで、まずは一人の社会人として実力をつけたい。そして、親にもしっかり恩返しをしたいです。
でも、私の心は常に「次世代BASE」とともにあります。将来的には、社会人として得た経験やスキルを持って新潟に戻り、また違った形で学生たちを支えたいと思っています。
「私のような、流されやすくて、留年もしたような人間でも、ここまで変われる」
その事実を体現できたことが、私の誇りです。だからこそ、今度は私が、かつての私のように迷っている学生たちの背中を押してあげたい。失敗しても大丈夫、そこから新しい世界は切り拓けるんだよと、伝え続けていきたいです。